日塔貞子の生涯『雪に燃える花』の著者・安達徹氏が貞子の師・吉村貞司の自宅に取材に行った時のことが本に書かれています。少し紹介したいと思います。
昭和12年、女学校4年の終わりごろから、貞子の投稿回数はとみに多くなる。
それまで『少女の友』などに、ごく幼い作品を書いていたが、少女画報、新女苑、女子文苑、女子文芸などに投稿するようになってから、作品の質も急激に上昇した。昭和12年は詩人・貞子としての記念すべきスタートの年であった。
女学校卒業時に書いた作品が『少女文芸』の創刊号に特別推薦として一段組で載せられている。
題は「三月の日記から」であり、署名は南リチカ。貞子がこのんでもちいたペンネームの一つであった。
三月の日記から
南リチカ
三月は
古いひいなの匂いをもて
黄なる菜種の香をもって
あかい南国の夕べの様な望みがてふてふの様に動いている
三月よ
ほのかな賑わひにゆすられて
私はこんなにつかれてしまった
『少女文芸』は『少女画報」の編集関係のものがはじめたもの。ただ読者が100名ほどの小部数で発刊したものだから、最初から経営が苦しかった。
しかし少女画報より文学的だったが゛好意的援助゛を続けていた吉村貞司は『少女文芸」廃刊と同時に画報からも身を引いた。営利のために我慢ならなくなったのである。
『つどひ』は吉村貞司、画家の深水正策、詩人で大学の教授である那須辰造の三氏を中心にして、少女詩人らが集う雑誌であった。そしてこの少女らは三氏を生涯゛先生゛と呼んでいたし、当然『つどひ』は文学学校という性格も備えていた。
「視ことは愛であり、詩うことは祈りである」
と、リルケの詩がいつも口ずさまれていたのは「つどひ」の誌上であった。
昭和13年9月に創刊、表紙は版画刷りのA5版。2号からはタブロイド版となって白地に黒の活字。普通は8頁の薄いものだっ。
薄くとも、冒頭のリルケの言葉のように少女たちは゛愛と祈り゛という敬虔な気持ちを込めて、詩を書き、小品を載せている。吉村さんは当時のことを回顧し、
「私たちは自ら日曜詩人とよんだ。朗らかに笑っていた。つとめているひとがある関係から、集会を日曜日に限っていたためであるが、それは清潔なアマチュアリズムの矜持もひそめていた」(薔薇科21号)
といい、また吉村さんは少女らの持つ特有な体質を洗いおとすことにも努めている。
「私は何をしただろうか。強いて求めるならば、少女雑誌の汚臭ぷんぷんたる悪趣味から、彼女らの才能を救い出し、白紙にかえしたことだった。血のかよわない、きれいづくめの千代紙めいたモザイクや、感傷の毒を洗い落としてやることだった」(薔薇科21号)
貞子の精神的な成長は『つどひ』を抜きにして考えられない。「彼女らは゛つどひ゛を通じて結ばれながら美しい魂として高められた」という吉村さんの自信のほども、私にはよくわかる。
吉村さんらを中核に、彼女たちはよくおしゃべりをした。同世代の書き手という自負が、文学をも超えて,終生文通しあうという私的な生活面までかかわりあうようになり、結婚はおろか、離婚の相談まで手紙にたくし、意見をたたかわせている。横浜の渡邊綾子、東京の大場歌子、童話作家の池田澄子、詩人福士幸次郎の娘・弘子、高知の秋沢ふき子などが貞子の文通相手として特に目立った。山形の宮沢寿子もその一人であった。
そんな心のふれあいをつくった『つどひ』の秘密はなんであろうか。
『つどひ』はやはり啓蒙性を帯びた雑誌であった。゛これだけは読んでおきましょう゛という欄があって、日本篇、西洋篇等に分け、文化史から聖書、そして約百記の果てまでとりあげて、短い解説をつけている。そんな押しつけも押しつけと感じないほどの気配りようもあって、ぴったりしていた。
吉村さんの選評の見出しが、「詩にそえる詞」であったり、「皆様の詩の後に」と書いたり、または厳しく「選評」であったりして、実作者をあくまで尊重していこうとする態度がのぞかれること。この少女たちが離れられない最大の秘密がここにあると私には思えた。
私は吉村さんにもっと少女たちの話を続けてもらうようお願いした。
「池田澄子というのがいまして、実に少女らしい詩や童話を書きました。一方、石垣りん子はそのころから大人っぽい作品を書きましたよ。ご存知でしょう、石垣を」
聞かれて二日酔いの頭がズキンズキン痛んでくる。石垣りん子。その名はどこかで聞いたことがある。しかし思いつかぬまま、
「ええ、知ってますよ」
とうなずいてしまった。
「その石垣りん子は、貞子さんの良きライバルでした」
そのとき吉村さんは強い眼鏡の奥から無いような細い眼を私にむけた。私は半ばうろたえていた。
「当時、貞子さんの作品は装飾的でして、月が出たりするメルヘン調のものが多かったのです。それは実にまとまりのある完璧な作品でした。しかし『つどひ』的でないのですね。せいかつのなまものがないのです。そのことで詩人・那須辰造君と話しました。しかし那須君もいいましたよ、貞子さんの装飾的な作品はそれなりに完成しているって。無視できないのですね。」
貞子の初期の作品はやはり装飾的に絢爛としていた。
次の一文だけの散文詩もそう言えるだろう。
『コドモノクニ』で読んだ一篇の古い童詩がまるで石竹色のランプを振るように心の奥でもえはじめた(昭和16・つどひ)
『雪に燃える花』安達徹・著 より
私は大好きな詩人石垣りんさんと貞子が『つどひ』で一緒と知って、ぜひ石垣さんに二冊の本を贈りたいと思っていたのですが、住所がわからないうちに亡くなられてしまったのです。そのことはとても残念で心残りなことでした。
貞子のノートに貼られている『少女の友』の附録(SOUVENIR 昭和12年ころ)
2009年の12月東京の弥生美術館で『少女の友』展示会が開催されました。
やむを得ない用事が出来て、これはラッキーと思い12月22日に行くことができました。
昭和12~13年ころの附録をみると、貞子が手作りノートに切り張りしていたものがいろいろあり、こころわくわく感動しながら鑑賞してきました。
物のなかった時代、附録を切り張りしながら美しい手作りノートを作っていた貞子のいっしょうけんめいな姿が目に浮かぶようでした。
少女の友附録「SOUVENIR」(フランス語 : 思い出の品)
中を開くとサイン帳のようになっていて中原淳一の絵とサインがある
『少女の友』の主筆である内山基のサインも
このノートは古書店で求めたものです。
どなたがこの思い出の品をお持ちになっていたのでしょうか・・・・・・。